昭和40年02月03日 朝の御理解
例えば私が、ここに締めております、この帯です袴の下に締めておって、博多織りなんですけど、爺のこれは形見なんですよ。私くしもこれ初めは黒かと思うとった、所が明るい所でよくよく見た所が、これは茶色でした。茶色の濃いのでした。けどもやっぱり一見黒にしか見えないのでしょう。ね。もう立派な茶なんです。明るい所で見るとそれが茶である事が分かるけれども【 】て見ますと黒にしか見えません。
私のこの締めております、この羽織の紐もそうです。これは濃い紺なんです。この頃これは、文男先生が持ってきてくれたんですけれども、これ黒で丁度よかですこれ、黒でなかですよ紺ですよ、成程明るい所で見たらやっぱり紺なんです。例えば色もですね、それがもう濃い物になりますとね、それがみんな黒に見えるんです。それは全然黒とは反対の赤色でもそうです、愈々濃いくなりますと黒うなります。
これもどど黒ろ、そのあとどど黒ろくなってく、ね、赤でももう本当に濃い赤は、もう、赤ぐろくともうしますでしょう、だからあれを薄めてご覧なさい、りっぱな火の様な赤になるんですから。私共が苦労だと難気だと言っておるんではですね、御恵みの光をこう照らしますと、そりゃとっても苦労じゃないんです。それをですね御恵みの水の上で水で薄めていいますとですね、そうじゃ無いのです。ただ私共の上にそう錯覚しておるだけなんです。もう本当にそれは立派な赤であり。
立派な水色なんですけれども、それが重な、積もり積もっておりますから、黒く見えているだけなんです。言うなら病気なら病気でもそうなんです。誰が見ても病気なのだ。医学上でもこれ病気なのだ。病気だけれども、よくよくそれを薄めてみます、明るい所に照らして見ると、病気じゃないのです。だから世の中には病気は無いと、世の中には難気というものは無いと、もう極限するとそう言う事になるんですね。信心ていうものはですね、だからそういうその一つの理を教えて頂くと。
成程そうだなぁと思うのですけれども、まっそれが矢張り赤に見え、矢張り青に見えてこなければ、値打ちはないです。ね、それはそんなもんだと、皆んなそれを神愛の現れであると言う事をです、説明が出来て思いましてもです、ね。それが本当の事じゃない、矢張り身をもってだけでない、心をもってそうと感じられなければなりません。でなかったら心から例えば、その難気と思うとったのが難気ではない。
本当に神様の深い深い愛の現れであったと、氏子可愛いの現れであったと、表現であったと分からして貰える所にです、有難う御座いますと言う事に、成って来るのですよね。西遊記の孫悟空です、ね、そのあれは何ですかね、如徠様でしょうか、私共がよう、天地の親神様のことですね、仏教で言うなら、その、神様に向かってですね、自分はもう、1分間にどれだけの、その、ところを走れるのだと、如意棒というものを持っとりましてね、ま、自分の意のままになる、ね。
何千里という道乗りを瞬く間に飛びおりるような術を心得ておるのだと。自分の様な偉いのは、まあ世界には居るまいと言う事の、まぁいばる所があるです。「お前そんなに、その素晴らしい、力をもっておるのか、ね。それなら1つ何千里か、何万里か向こうにある所の、こう塀があるわけなんですね、その塀にそのお前の印を入れて来いと、そして私の力私の持っておる力と、その比べてみよう」とこうなった。はぁそんな事は気安い事ですよ。私ひとっ飛びしてきましょう。
て言うてそのそのこう、その目印付けてきますからそれをちょっと貴方、見届けて下さいというわけなんです。ね、それこそひとっ飛びに何千里、何万里という所を飛んで参りました向こうに。う印を付けてきた。また今度やって来てからどうですかと、私のその素晴らしいその働き素晴らしい力でしょうと自分をほめる。そしたらその如徠様がこう自分の手を広げておられて、貴方が印を入れてくれたのはここですよ。というてね何千里、何万里飛んでいって印を入れてきたと、こう思ったけど。
矢張りそこは天地の親神様の、手の平の中であったと言う事である。そして私があんたこうしたらもう、あんた締まりますよちゅうてから、仏様が仰ったという話なんですよ。ね、
私共がねそう言う様なその、自分の我と何故我を捨てなければならないかと。私は働いてこうしなければ、一家中がたっていかんのですよと、それが正直な事ばっかりじゃいけんと。やっぱぁ誤魔化しもしなければ、この世っていうものは立って行くものじゃないですよ、というてその我で固まりその、そうした悪で固めていき、そしてその本当に、矢張り同じそれが赤であってもそれを黒うしてしまいよる。
水色であってもそれを黒、紺でもそれを黒に見えるようにして、自分がしてしまっておると言う事です。ですからそれとは反対にです、我をとらして頂く事に、自分の我情をとらして頂く事に、一生懸命にならしてもろうて、それを薄めていく。ね、そこにあるものは、我身は神徳の中に生かされてあるのだなぁという、この天地の親神様の手の平の中にあるのだと、どんなにもがいても、あがいても、これから一歩も出ることは出来んのだと言う所をです。
四神様が教えておられますですよね。二代金光様、「神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやる」と、おっしゃる。神様の例えば心にかなうあり方に、一生懸命ならして頂けばと言う事なんです。神の用をたせばと言う事は、御広前で一生懸命御用せにゃならんという意味じゃないです。ね、皆さんがなさっておられる、その御用そのものもです。所謂御用として御繰り合わせがつけられるような、
御用の気になって参ります時です、ね、氏子の用は神がたしてやると、仰る様な素晴らしい事にもなってくるんです。ね、私がどれだけの事が出来るか、ね、とにかく一日一寸と、一寸なら一寸こう行くために、それこそあの手この手を使うて、人をだましたり又は御教えに反する様な事ばかりしてから。そしていくら儲かったこんくらい儲かったと言ってますけれどもね、例えば商売人でいうならそれはこう申します。ね、むごこうが掛引きにかかった。ででそのいくらか儲かった。
で色々だから金儲けが上手【 】いうてあってもとってもです。神様の働きには勝てません。いくら馬鹿をみて損をしておる様であっても、いわば損をして徳を取らして頂く様な神様のですね、その御徳の世界というかおかげを下さるというか、氏子のために神様が働いて下さると言う事になるとです、とてもとてもお話しになりませんのです、そんなその様な事をです、身をもっていわば分かるんですけれども中々出来ん。
昨夜ある方が、大変大きな商売をしておられた方なんです。税務署がの方が見えてから二日間もう根限りしぼられた。ね、もうそれはそれはもうそれこそ生きた心地はせん。ここをつつかれたらどう言う様にしようかと、ここを見られたらどう説明しようかと、もう思うただけで目の前が真っ黒うなるごとある。そしてむこう相手は専門ですからね、そのそう言う所、急所急所をさっさとついてくるわけなんですよ。日頃これは隠しときゃならん、これはもう帳面に付けとかんとおこう。
と言うてからもうやってるもんですから、そう言う事になるんですよ。そして夕参ってみえてからです、もう先生我情我欲をもうすてなきゃ出来ません。てから言われるんです。ね、本当に矢張り我情我欲を捨て、自分のいわば私の汚い心がです私達だけじゃありません。それを担当しておる事務員の人も、店の者も私も言うに及ばずそれこそ、大変な難儀を致しましたけれども、まっ神様のおかげを頂きましてから。まっここをついてこられりゃどうしょうかと、言う所をまぁ向こうの方が。
れんこん食うて下さった。まっ適当な所で、おり折り合わして頂いてから、おかげ頂きましたけれども、もう、先生これはもう、こりっごりっいたしました。してみるとその、税務署の人はですね、その人はもう本当にもう、税務署はもうそれこそ鬼のごと思うとるけれども、その人は仏様だった事になるですね。もう一つ言うておられる様に、解られるとするならば、もう私はこれによって、我情我欲を捨てます。
と言う様な事になったら公明正大、ね、どの様な明るい所に出さして頂いても、一目瞭然皆んなが、がてんが行く様なです、私にならして頂く時です、そういう気持ちが本当に出来たとするならです。そういう難儀と思うておった、いわばもう黒と思うとったその黒にですね、ね、そのまあ言うならですもう赤色になっとった。それをお恵みの水でだぁっとこう沢山、薄めて頂いて初めて分かった。あっこれは真っ赤な色であったと言う事が、分かって来た。
まっそんなことじゃないでしょうかね、私。だからそういう目にあうと、そういう巡り合わせになってくると言う事もだから、おかげであると言う事が分かるでしょうが。ね、しかし喉元通れば暑さを忘れると、また明日から同じ事繰り返したら、又同じですよね。正直者は馬鹿をみるて、それは信心の無い人の言い方です。ね、算盤の上ではこうしてああすりゃそれのほうがとくの様にあるけれけれどもです、神様は算盤をお持ちになりませんのですから。
昨日もやっぱり夕べもあっ近所のある嫁さんが、この頃毎日参って見えるんです。もう本当にもっ昨日ばっかりは、もうおかげを落しました、ちゅうてから火鉢の所へ下がってから話ですもんね。あの燃料のあのもみぬかを使っておられるらしいんですね。火鉢でも。所がそのお婆さんがちっとばかりこうして見なさるほうですたい。あっでもこの頃でも、もみぬかを使うなら、もうどんこん出来ん。もう火鉢なんて二日に一辺かくらい持ちなさるそうですって。
成程、二日ほどほっこら温くうしちょるそうです。ね。そんでんばばしゃま、あなたもみぬかはなんぼでんあるもんば、どうせ余ったっちゃよか、捨てなきゃいけんもんじゃけん、あんた毎日焚いたっちゃよかでっしゃろうもんち。そりゃぁ明くる日までちいと、ほこら温うしとるばってん是じゃあなたこげん寒かつにとても出来やせんよ、ちゅうたらあんたがそげんこつばっかりいうちから、もう二日目はこれで丁度よかち、今から二日にせんのちゆうて言いなさるそうです、婆しゃまが。
そしたら横からその主人になるお婿さんがですね、あぁばばしゃま、あんたそげんこつばかり言うちから。そげな二日もあんた火鉢おるばしするとこがどこへおんの、いう一日でよかがなち、もう御主人どうか聞く事はいらんばのち言ういなったから、夫婦でいうもんじゃけん婆しゃまはもう、カンカンに青うなって腹かきなさったと言う事です。本当にあれが、腹かかしてすまだったという事なんですね。けどやっぱそう言うとこが、そのお嫁さんの言うておる事が、その息子の言う事が本当の事の様にあるんですよ。
所がそこにきですもんね、神と仲ようする信心。というのはその辺ですばいと、私は昼話した所でした。ね。神と仲良うする信心ぞとは、ね、神様の思いを分からしてもろうて、神様の心に添うて行こうという、夫婦仲良うする信心ぞと、親子仲良うする信心ぞと、そりゃぁ主人が言うておる方が道理のようであり、それを婆しゃまが 言うて御座る方がです、どげん考えたっちゃぁその可笑しいんですけどれども。
そうですね婆しゃま、ならそうしましょうか明日からと、こう来たらどうなろうか、と言うわけです。それでまたこりゃやっぱぁ二日目でちったぁ是じゃぁいかんな、やっぱ毎日せんにゃ。そうですね、ならやっぱそんなしましょうかね。て言うたらそれでいいのですけれどもね。しゃっちそれはどうぞ、まぁ貴方こげな金ばし掛かる事ですね。ちょっと、事をです、言わんでもです、息子がわざわざその婆さんが言い御座るとにですたい反発しなくてもですたい、ね、ですからそれはそのね、自分の物本当であってもです。自分の物にのし付けて、神様に持って行く様な気持ちになる。そこからですね、神様のお働きがです超のつく様なおかげになって来るんですよと。
親任せになっておる。主人任せになっておる。神様の心に添うていこうと一生懸命努めておると。それが馬鹿ほどに、そこん所を素直について、そこの所にです、神様のお働きというものは、始まるのですから。あれはもうこの働きというたらいわば、超が付く様な働きになって来るのです。空を憎む人、人間の考え知恵というものを超越した。神の働きというものが、頂けるのですよと。
我情をとるとか、我欲を捨てるとか、孫悟空じゃぁないですけど、どんなに力を持っておった所でです。ひとっ飛び何千里、何万里と言う様な、働きがよし出来ましてもです、そこに矢張り神様のお懐の中以外には無いと言う事。そこん所が解らして貰い、悟らしてもろうたらです。我情我欲を取る事が出来ます。真の大道を開ける事が出来ます。そこには神様のおかげの世界を知る事が出来ます。
人は難儀と言うて悲しい情け無い涙を流しておるかと思うとです。おんなし事柄をです、神様のお働きであり神愛の現れであると、お礼を申し上げれる世界がそこから開けて来るのです。ね。そこをどうでもそこを一つ、お互い開かして頂くと言う事が、信心じゃぁないかと。そういう所を目指さなければ駄目だと。どうせならば税金、そのいや税金がと申しましょう、誤魔化そうかと言う事、誤魔化し得たとをもって広大なおかげ頂きました。と言うとる間は、こんな事じゃぁないかと思うですよね。
おかげ頂きました。